もう「新作」と言っても、20年以上前の映画となってしまったが、いわゆる『'84ゴジラ』について私の思うところを書いてみよう。
監督=橋本幸治、製作・原案=田中友幸、特技監督=中野昭慶、脚本=永原秀一、音楽=小六禮次郎
出演は、小林桂樹、田中健、沢口靖子、宅麻伸、夏木陽介
『メカゴジラの逆襲』以来、休止していたゴジラの復活を望む声が高まり、満を辞して登場した作品だ。そのため、チョイ役のゲスト出演者の顔ぶれも多彩だ。武田鉄矢、石坂浩二、かまやつひろしなんかがそうだ。
また、『日本沈没』以来の特別スタッフの参加もある。東大の竹内教授などだ。
本作は、後に「政治をとりあげた」と言われたほど、政治家役が出てくるが、田原総一朗も特別スタッフとして参加している。
物語は、ゴジラを追う新聞記者の牧(田中健)を中心に、ゴジラ対策の研究を行う林田教授(夏木陽介)、その研究生の奥村(宅麻伸)、その妹の尚子(沢口靖子)で、繰り広げられるパートと、ゴジラに対処していく政府のメンバー総理大臣三田村(小林桂樹)、官房長官武上(内藤武敏)、外務大臣江守(鈴木瑞穂)らで、繰り広げられるパートに主に分けられている。その結びつきは、奥村がゴジラの第一発見者であること、林田がゴジラへの対応策を提案するという部分だけで、三田村と牧たちとの接触はほとんどない。
このゴジラは、「原点回帰」が声高に叫ばれ、制作された作品だ。その当時言われていたのは、「ゴジラは人間の敵でなければならない」とか「人類の恐怖や脅威でなければならない」ということだった。そして、54年の『ゴジラ』に戻るということだった。『三大怪獣地球最大の決戦』以来「人間の味方」と化したゴジラは本当のゴジラではないというスタイルだ。でも、よくこれらの作品を見ると決してゴジラが人類の見方になったわけではなく、行きがかり上、人類の敵・脅威に対する敵になっただけなのだ。だから、ゴジラ以外の怪獣を出さなければ、自然とゴジラは人類の脅威になる存在なのだ。
ゴジラの意志で、人類を救おうとしたのは、『ゴジラ対メガロ』くらいだろうか?『ゴジラ対ヘドラ』でも、子供がゴジラを正義の味方として応援しているが、ゴジラがそれに応えているかというと疑問が残ると思う。『オール怪獣大進撃』はどちらかというと、子供の空想の物語で、これはファンタジーの世界だ。
ゴジラは、ガメラほど明確な味方怪獣ではないのだ。
でも、「原点回帰」とは、「『人類の敵』であるゴジラを描くこと」としてとらえ、また、ゴジラ以外の「人類の敵」と行きがかり上戦うゴジラを「人類の味方」ととらえた結果、『ゴジラの逆襲』以降の14作品を無かったこととして、この『'84ゴジラ』は描かれたのである。でも、本当に「原点回帰」とは、そういうことだったのだろうか?
私が考える「原点回帰」とは、「話の中心がゴジラであること」と思っている。『三大怪獣地球最大の決戦』以降(厳密に言えば、東宝怪獣映画では、『宇宙大怪獣ドゴラ』以降)物語の中心が怪獣だけではなくなった。『地球最大~』では、主人公の一人、進藤刑事(夏木陽介)が追いかけているのはサルノ王女=金星人で、ゴジラの出現ではこれは変わらない。それまでは巨大な台風として扱われていたゴジラが、このとき、低気圧程度の扱いに落ちてしまったように思う。数多くの怪獣映画が製作されていたので、バリエーションとしてこれはありだが、こればかりでは、ゴジラ映画でなくても構わないことになる。その矛盾がゴジラ映画の休止に追い込んだのではないだろうか。
そして復活。ゴジラに右往左往する人々が描かれている。その裏で、ゴジラを利用しようとする人々も描かれる。人間のエゴを描こうとしたのだろうが、その時点で、ゴジラは脅威ではないのだ。道具なのだ。でも、最後には、一番ゴジラに右往左往させられた三田村首相のアップで終わる。仕方ないのかもしれない。政治を持ち込んでしまったから、駆け引きを描かないわけにはいかないか。
『日本沈没』の避難民の受入にも駆け引きが描かれるが、日本が沈むという非現実的な話を兆候もない時点で信じてもらうのは不可能なことだと思う。でも、「ゴジラ」は30年前に現れているのだ。にもかかわらず、駆け引きになるというのは、やっぱり、納得しにくい。閣内でもそのそぶりが見えるくらいだから。
第1作『ゴジラ』でも政治が少し描かれるが、国会の委員会程度で、首相もその他の大臣も出てこない。外国に気を使う国会議員が出てくる程度だ。あくまでも、尾形(宝田明)、芹沢(平田昭彦)、恵美子(河内桃子)、山根(志村喬)の中で描かれている。それゆえ、話が散漫にならずにまとまっているんだと思う。
ゴジラだけを中心におかず、いろいろな軸を最後に収束させていくスタイルは、うまくやらないと話が発散してしまいがちだ。そのスタイルが、怪獣映画というものにはまるのだろうか?ゴジラはあまりにも大きな脅威であるがゆえに、それに出演者が集中していくほうが普通のような気がする。でも、それじゃあ、シリーズ化できないのもわかるけれど。
でも、まあ、その後の『平成VSシリーズ』へとつながっていったのだから、意義のあった映画であることは間違いないだろう。
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