映画・テレビ

2009年3月 1日 (日)

2月の読書状況

読んだ本 8冊

買った本 10冊

今月は『日本沈没』月間とでも言おうか。檜山良昭さんの『大逆転 日本経済沈没を救え!』も含めて、5冊読んだ。上下巻は2冊カウント。

『日本沈没』はSF小説として注目を浴び、2度映画化、1度連続TVドラマ化されたが、実際原作を読んでみると、SFというよりは、政治小説の色合いの法が濃いように思った。その部分は、映像化の際にはけっこうカットされていたように思う。「日本列島の沈没」というスペクタクルが中心なので、どうしてもその部分の映像化に注目がいってしまうので、仕方がないんだろうが、残念だなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

第二回伊福部昭音楽祭 その2 川北監督

 映画『大坂城物語』には、平成ゴジラvsシリーズの特技監督をされた川北紘一さんもお見えになっていた。私は、ロビーの横のカフェで昼食を摂っていたが、ロビーに川北監督がいらっしゃったので、思わず声をかけて、写真を撮らせていただいた。

Pict3661  「こんな年寄り撮っても仕方がない」と言いながらも、笑顔で応えていただき。うれしかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

第二回伊福部昭音楽祭 その1『大坂城物語』

 ついに『第二回伊福部昭音楽祭』が始まった。Pict3660

 最初は映画『大坂城物語』の上映だ。11時上映開始の予定だった(チケットに書いていた)が、1時間勘違いして早く着いてしまった。でも、結果的にはこれが良かった。定員は190名、入りきれない人がいたからだ。観客もバラエティーに富んでいた。親子連れもいたし、若いカップルもいたし、年輩の方もいた。男性の方が圧倒的に多くはあったが、改めて、伊福部さんは幅広い層に支持されているんだなぁと、感心したしだいだ。

 『大坂城物語』は、監督=稲垣浩、主演=三船敏郎、特技監督=円谷英二、製作=田中友幸、音楽はもちろん伊福部さんだ。私は初見だった。音楽はサントラで聴いてはいたが・・・・・・。ホールの設備の関係でフィルム上映ではなく、DVDをプロジェクターでの上映だった。でも、充分楽しめた。スクリーンめいっぱい大きくして欲しかったが、いいだろう。映画そのものもおもしろかった。舞台は、大坂夏の陣直前だ。豊臣家存続をはかる人々のお話。アクションシーンも豊富だ。大坂城は、かなり巨大なミニチュアである。なかでも、クライマックスの馬車での突撃シーンは凄かった。スピード感とそれを盛り上げる音楽、三船さんの演技も凄かった。まさに、映画の黄金時代の娯楽巨編だ。

 メインコンサートの前に、このように映画を楽しめるのはいい企画だと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 8日 (火)

『日本以外全部沈没』を見た

 『日本以外全部沈没』をDVDで見た。

 原作は筒井康隆さん。1973年に発表された小松左京さんの『日本沈没』のパロディだ。本作も1973年に発表させた。『日本沈没』は長編だが、『日本以外全部沈没』は短編だ。それゆえ、映画にするために話を膨らましていることと、時代背景が異なるので、今に合わせている。

 国境問題が発生しているところは、小説では確か、かなり明確に沈まない部分(=日本)が書かれていたと思う。(手元に原作がないので、昔の記憶に頼るしかない)ここら辺が、きわどいところだ。

 また、出版当時はあまり問題になっていなかった、靖国神社の問題がエピソードに盛り込まれている。中国、韓国に対する描写は、極端で、こりゃ、全国ロードショーなら国際問題になりそうだ。北朝鮮も原作とはかなり違うように描かれているはずだ。将軍様が工作員を指示してテロを起こすなんてところは、1970年代では、描ききれないところだと思う。(今ほど実体が認知されていなかったはずだから)あと、クジラについてもそうだろうな。

 まあ、あまり考えずに見るべきもので、これに目くじらをたてたりするのもどうかなと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月22日 (日)

『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ歌うケツだけ爆弾』を見に行く

 今日は雨が降っていたが、選挙ということで、午前中に家族で外出。投票を済ませ、どうしようかと悩んでいた。公園など、外で遊ぶことができそうにもないので、映画なんかどうかということになった。昨日から『クレヨンしんちゃん』の映画が始まったし、子供も好きなのでいいかなと。最初乗り気でなかったが、だんだんその気になって、行くことが決まった。

 近所の映画館では、上映されていなかったので、ドライブがてら、シネコンへ。1時間半くらいで到着。次の上映がすぐ始まるスケジュールだったので、昼食がまだだったが、先に見ることにした。

 映画館は満員。夫婦、子供の3人で、まとまって見られる席が残り少ない状態(全席指定)だったが何とか席があった。2階席の一番前のボックスシートとすぐ後ろの席を確保。2階席といっても1階と2階の区別が付きにくいのだが、通路で離れているため、前の席の人に迷惑をかける心配もなく、よかった。

 あまり乗り気でなかったはずの子供は、もうかぶりつきで見入ってしまった。

 『しんちゃん』の映画は、家族愛や友情が盛り込まれていて、涙が出そうになるシーンもある。もちろん下品な笑いも多いのだが・・・・・・。でも、家族で楽しめる映画であることは間違いない。他にも家族連れが多かったこともそれを示している。

 『しんちゃん』は子供が見出すまで、ほとんど見たことがなかったが、一緒に見るようになって、なかなかおもしろいものだと感心してしまった。特に、映画は漫画だとバカにせずに一度見るといいと思う。あまりシリアスではなく、でも、感動もあるという、バランスがいいんだよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月21日 (水)

1984年新作『ゴジラ』を考える

 もう「新作」と言っても、20年以上前の映画となってしまったが、いわゆる『'84ゴジラ』について私の思うところを書いてみよう。

 監督=橋本幸治、製作・原案=田中友幸、特技監督=中野昭慶、脚本=永原秀一、音楽=小六禮次郎

 出演は、小林桂樹、田中健、沢口靖子、宅麻伸、夏木陽介

 『メカゴジラの逆襲』以来、休止していたゴジラの復活を望む声が高まり、満を辞して登場した作品だ。そのため、チョイ役のゲスト出演者の顔ぶれも多彩だ。武田鉄矢、石坂浩二、かまやつひろしなんかがそうだ。

 また、『日本沈没』以来の特別スタッフの参加もある。東大の竹内教授などだ。

 本作は、後に「政治をとりあげた」と言われたほど、政治家役が出てくるが、田原総一朗も特別スタッフとして参加している。

 物語は、ゴジラを追う新聞記者の牧(田中健)を中心に、ゴジラ対策の研究を行う林田教授(夏木陽介)、その研究生の奥村(宅麻伸)、その妹の尚子(沢口靖子)で、繰り広げられるパートと、ゴジラに対処していく政府のメンバー総理大臣三田村(小林桂樹)、官房長官武上(内藤武敏)、外務大臣江守(鈴木瑞穂)らで、繰り広げられるパートに主に分けられている。その結びつきは、奥村がゴジラの第一発見者であること、林田がゴジラへの対応策を提案するという部分だけで、三田村と牧たちとの接触はほとんどない。

 このゴジラは、「原点回帰」が声高に叫ばれ、制作された作品だ。その当時言われていたのは、「ゴジラは人間の敵でなければならない」とか「人類の恐怖や脅威でなければならない」ということだった。そして、54年の『ゴジラ』に戻るということだった。『三大怪獣地球最大の決戦』以来「人間の味方」と化したゴジラは本当のゴジラではないというスタイルだ。でも、よくこれらの作品を見ると決してゴジラが人類の見方になったわけではなく、行きがかり上、人類の敵・脅威に対する敵になっただけなのだ。だから、ゴジラ以外の怪獣を出さなければ、自然とゴジラは人類の脅威になる存在なのだ。

 ゴジラの意志で、人類を救おうとしたのは、『ゴジラ対メガロ』くらいだろうか?『ゴジラ対ヘドラ』でも、子供がゴジラを正義の味方として応援しているが、ゴジラがそれに応えているかというと疑問が残ると思う。『オール怪獣大進撃』はどちらかというと、子供の空想の物語で、これはファンタジーの世界だ。

 ゴジラは、ガメラほど明確な味方怪獣ではないのだ。

 でも、「原点回帰」とは、「『人類の敵』であるゴジラを描くこと」としてとらえ、また、ゴジラ以外の「人類の敵」と行きがかり上戦うゴジラを「人類の味方」ととらえた結果、『ゴジラの逆襲』以降の14作品を無かったこととして、この『'84ゴジラ』は描かれたのである。でも、本当に「原点回帰」とは、そういうことだったのだろうか?

 私が考える「原点回帰」とは、「話の中心がゴジラであること」と思っている。『三大怪獣地球最大の決戦』以降(厳密に言えば、東宝怪獣映画では、『宇宙大怪獣ドゴラ』以降)物語の中心が怪獣だけではなくなった。『地球最大~』では、主人公の一人、進藤刑事(夏木陽介)が追いかけているのはサルノ王女=金星人で、ゴジラの出現ではこれは変わらない。それまでは巨大な台風として扱われていたゴジラが、このとき、低気圧程度の扱いに落ちてしまったように思う。数多くの怪獣映画が製作されていたので、バリエーションとしてこれはありだが、こればかりでは、ゴジラ映画でなくても構わないことになる。その矛盾がゴジラ映画の休止に追い込んだのではないだろうか。

 そして復活。ゴジラに右往左往する人々が描かれている。その裏で、ゴジラを利用しようとする人々も描かれる。人間のエゴを描こうとしたのだろうが、その時点で、ゴジラは脅威ではないのだ。道具なのだ。でも、最後には、一番ゴジラに右往左往させられた三田村首相のアップで終わる。仕方ないのかもしれない。政治を持ち込んでしまったから、駆け引きを描かないわけにはいかないか。

 『日本沈没』の避難民の受入にも駆け引きが描かれるが、日本が沈むという非現実的な話を兆候もない時点で信じてもらうのは不可能なことだと思う。でも、「ゴジラ」は30年前に現れているのだ。にもかかわらず、駆け引きになるというのは、やっぱり、納得しにくい。閣内でもそのそぶりが見えるくらいだから。

 第1作『ゴジラ』でも政治が少し描かれるが、国会の委員会程度で、首相もその他の大臣も出てこない。外国に気を使う国会議員が出てくる程度だ。あくまでも、尾形(宝田明)、芹沢(平田昭彦)、恵美子(河内桃子)、山根(志村喬)の中で描かれている。それゆえ、話が散漫にならずにまとまっているんだと思う。

 ゴジラだけを中心におかず、いろいろな軸を最後に収束させていくスタイルは、うまくやらないと話が発散してしまいがちだ。そのスタイルが、怪獣映画というものにはまるのだろうか?ゴジラはあまりにも大きな脅威であるがゆえに、それに出演者が集中していくほうが普通のような気がする。でも、それじゃあ、シリーズ化できないのもわかるけれど。

 でも、まあ、その後の『平成VSシリーズ』へとつながっていったのだから、意義のあった映画であることは間違いないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)