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2023年7月

2023年7月23日 (日)

ゴジラ(1984年作)について

 ゴジラ映画の第16作目。1984(昭和59)年12月15日公開の作品である。
 昭和最後のゴジラ映画で、平成の「vsシリーズ」につながっていく位置づけである。
 前作『メカゴジラの逆襲』(1975年)から9年を経て制作されたものである。
 この作品のキャッチコピーには「30年間の沈黙を破って全世界待望の「ゴジラ」最新作!」となっており、これまでの『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までの14作品がなかった設定で、1954(昭和29)年の最初の『ゴジラ』の次の話ということになっている。この後、これまでの流れをリセットして、『ゴジラ』の次から始めるというフォーマットを発明した作品ともいえる。その『ゴジラ』すらない世界の話が『シン・ゴジラ』で、今度の『ゴジラ-1.0』が『ゴジラ』の前日譚という形になっている。これまでのゴジラ映画に縛られないという、ある意味のハードルを下げてしまった作品ともいえるのではないか。

 ゴジラ映画としては、昭和のフォーマットを守っている部分もある。それは、音楽である。この作品の音楽を担当されたのは、小六禮次郎さんだが、全編、小六サウンドで覆われている。伊福部さんのゴジラサウンドを所々で使用するというようなことはしていない。確かに『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』では、新たな楽曲はなく、全編、伊福部さんの既存曲を使用してはいるが、選曲担当の所さんの手腕により、違和感なく見ることができる。次回作の『ゴジラvsビオランテ』以降、ゴジラが登場するシーンなどで伊福部さんの音楽が使用されるが、他の音楽と録音条件が異なるためか、音楽の響きが異なるため、違和感を感じる。同じ使うにしても、海外制作のゴジラ映画や、『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』のように、伊福部さんの曲を音楽担当の作曲家が編曲し、他の曲と同時に録音したものを使えば、違和感なく見られるのにとも思う。
 だから、『シン・ゴジラ』を見た時にもがっかりしたものだ。自動運転の電車がゴジラに突っ込んでいくシーンに「宇宙大戦争マーチ」が流れた時には、映画を見ているというより、何か別のものを見せられているように感じた。ゴジラの形態が変わるたびに、伊福部さんのゴジラに付けられた曲が流れた。それが公開された作品の順番に並んでいたので、ゴジラが進化しているといことを暗示したかったのかもしれないが、うまくいっているとは思えなかった。サントラのCDには、音楽担当の鷺巣さんのコメントがあり、新録音も行ったが、原曲を使うことにしたのだということだった。確かに、「宇宙大戦争マーチ」なんかは、いろいろな形で、新たに録音されているが、聞き比べてみると、最初の演奏が一番かっこいいと思う。映画を制作した時代の熱量というか、初めて音楽をつける映像を見て演奏した人たちのパワーというようなものを感じる。だからといって、別の映画で使用するとなると、バランスがおかしくなってしまうと感じる。
 そういう意味では、『84ゴジラ』は、全体的な調和がとれていると思う。

 一旦ここまでとしたい。内容の感想は、次の機会に。

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2023年7月17日 (月)

勝手に妄想『ゴジラ(1954年作)』の裏設定

 今年の11月3日に公開が予定されている『ゴジラ -1.0』が話題になっている。第1作(1954年)よりも前の年代が設定となっているらしい。
 どういう展開になるか注目されている。

 そこで『ゴジラ(1954年作)』の裏設定を勝手に考えてみたい。
 『ゴジラ』では、ゴジラの迎撃にあたって、在日米軍がどうのこうのというようなことは描かれていない。しかし、国会で山根博士がゴジラが核実験の影響で放射能を帯びていることを報告するシーンでは、大山代議士がそのことを公表すべきではないと意見表明している。理由は「ダダでさえうるさい国際問題がいったいどうなるか」ということだった。これは、当時核実験を行っていたアメリカなどの国を意識しての発言と思われるので、アメリカを意識していなかったということはないのであろう。『ゴジラ』が公開された1954年は、サンフランシスコ講和条約締結、最初の日米安保条約が締結されて3年、そして自衛隊が発足した年である。在日米軍が存在しており、自衛隊はフリーで行動できたとは考えにくいが、そういったことは全く描かれていない。外国からの調査団が到着するシーンは描かれているにもかかわらずだ。
 映画を製作していた人たちは、当然、戦争を経験した人ばかりである。監督の本多猪四郎さんは、召集により中国戦線に陸軍軍人として出征している。この時代の人たちにとって、自分たちの国は、自分たちで守るものであって、アメリカ軍に守ってもらうものという発想はなかったのではないかと思う。だから、ゴジラが上陸するにあたって、それを防ぐのは日本人の手で行うことであり、アメリカにお伺いとか、助けてもらうとか、そういう問題ではないという考えであったのではないかと思う。
 しかし、現実はGHQによる占領が終了した後も、安保条約により米軍が日本国内に存在しているのである。それを描かないのは、リアルではないという批判を受けかねないのはなかったか。
 で、私が考えた裏設定というのを述べていきたい。
 日本は、原爆を投下され、戦争には敗けたが、陸海軍は解体されなかった。文民統制は導入されるものの、兵器の開発、国産に関する権限は制約され、アメリカから輸入しないといけない状況というもの。
 登場する兵器類がアメリカ製だということ、ゴジラ撃退のために兵器を使用することに迷いがないことの説明がつくのではないか。
 のちに怪獣大戦争マーチに発展する「ドレミファミソレソドレミファミミレ」のマーチと、ゴジラのテーマとして有名な「ドシラドシラドシラソラシドシラ」がどちらもゴジラを迎え撃つシーンに流れる曲だが、前者が海のシーンに流れるのに対して、後者が陸上のシーンに使われている。前者が海軍のテーマ、後者が陸軍のテーマとして考えるとしっくりくる。隅田川から東京湾にゴジラが去っていく際に、F86セイバーで攻撃するシーンは、空軍ではないかと思われるかもしれないが、帝都の防空は陸軍航空隊の担当であったことを考慮すると、完全に使い分けられているといえるのではないだろうか。
 ゴジラによって破壊された東京の街を映すシーンに流れるBGMが「帝都の惨状」というタイトルがあてられていることも、この妄想が当たらずとも遠からずということではないだろうか。

 次の『ゴジラ-1.0』で上記の要素が入っていたりすれば、妄想ではなくなるかもしれない。

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